ヒンディー語のレッスン、しています。
これからもインドと関わっていくために、言葉を学びたいという人が少しずつ集まってきました。想いはそれぞれですが、学ぼうとする人に共通の「その国と付き合っていくと決めた覚悟」はとても清々しくて素敵。
大人になってから言葉を習得するため、想い以外に必要なものなんてないじゃないのっていつも思います。脳みそはもう子供のように柔軟ではないから、単語一つ覚えるのだってある程度気持ちがないとできないものです。
わたしは小さい頃から言語が大好きです。
システマティックでどの国にも共通のユーモアがあって、人間所詮同じ思考回路を持つ生き物じゃないのって、いろんな国の文法を通して知りました。
みんなと同じように小さい頃から学び始めた英語は付き合いも長く、物心ついたときからドライブ中に聴かされていた父親の好きな音楽が、私の耳と舌の筋肉を育ててのだと思います。子供はこうやって、言葉を学ぶのですね。これは大人にもとても大事。
イタリア語は、ちょっと運命的でミーハーな理由と二十歳という若さにそれなりの情熱がスイスイ言葉を学ばせ、今でも車を運転したり妄想が膨らむとこの言葉で独り言を言います。当時やたらと流行っていた「髪の毛くるくる」みたいな意味のCAPAREZZAという人の歌は、ご飯を作りながらたまに口ずさみます。
二十歳の小さい日本人の女の子が歌う歌ではなかったなと思うけど…、自虐的なユーモアのセンスには心が動きます。
そのあと、ひとりでインドをふらふらしていたらヒンディー語に出会いました。
やっぱり運命的な出会いでした。
初めて言葉を水のように美しいと思い、文字を見て萌えるという体験をしました。
これ犬みたい、これポットみたいな形した鼻!とか適当に妄想しながら文字を覚え、
あの不思議なインド人から繰り出される美しくて可愛い音の数々に、インドという国の美意識みたいなものを発見したのだと思います。
ヒンディー語の習得は、他の言葉よりずっと気楽です。
話す機会を作ろうとしなくても、面倒なくらいに周りのインド人はみんな先生になってくれる。勉強が進むと、いやそれ全然違うし間違ってるし!ということはたくさんありましたが、今は彼らがその場で普段使っている日常の言葉が何より正解だと思っています。
それくらい、インドの言語は多様化していてかなりフレキシブル。
ヴァラナシではガートごとに方言があると揶揄されるくらい、そんなとこに英語を混ぜていいの?とか、そんな風に文法崩してもいいの? そんな語尾変化?ということばかり。インドの言葉は、特に英語と混ざって常に変化を続けています。
だからこそ、ヒンディー語はどこに行っても便利。
特に北インドでは、人種が違ってもどんなに小さな村でも田舎でも、たいていの人はテレビや映画を見てヒンディー語に慣れ親しんで育ちます。
ローカルな生活に入れば入るほど、ヒンディー語は活きてきます。女性との会話、おばあちゃんとの会話、インドの師匠との深い深い音の会話。
言葉の壁がないと知った時のインド人の晴れるような表情は、他の国ではあまり見たことがありません。素直なインド人だからこそその想いはよく見え、ほんとに幸せな気持ちになります。そして同じように、ただ伝えたい言葉を私のヒンディー語で伝える。それがインドでは正解になります。
間違いなんて気にしなくて良い。正しいと言われるヒンディー語の文法なんて、所詮ガンディージーの時代に改めて体系づけられたような若い若い言語なのです。
文法を理解するのはほんとは難しいことではありません。
ほんとに難しいのは、その後その文法を使ってあなたが何を伝えたいのか、何を誰と話したいのか、これを伝えるためにはどんな風に単語を操ればいいのか、それを知ること、そしてそれを考えることのほうがずっと大切。
そのためにヒンディー語を使うのですよ♪
最近、ヒンディー語を学びたいという方が多いことにとても驚きました。
まだまだこれから飛躍する不思議の国インドの言葉。
ちょっとした言語オタクのわたしが、大人になってからの言葉の勉強の仕方、インド人にはなかなか答えられない微妙な文法の仕組みなど、伝授できると嬉しいです。
鈴木なお
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